I 2001/01/20 バスクラ I

 バスクラという楽器に魅せられてから、随分経つ。 一応、どんな楽器なのかを説明しておくと、乱暴な言い方をすれば「クラリネットのでかいやつ」かな。
 外見は何ヶ所か曲がっているから、ビジュアル的にはサックスに近いかもしれない。 しかし、サックスとは違って大部分が木で出来ている。
 音域は、ちょうどクラリネットの1オクターブ下になっている。 楽譜は、実際に出る音の1オクターブ上で書かれている。 つまり、クラリネット奏者が持ち替えた時に、同じ運指で違和感なく演奏が出来るというわけ。

 吹奏楽での役割は中途半端。 チューバと一緒にベースラインを担当することもあれば、ホルン、ユーフォなんかと一緒に副旋律を奏でることもある。 そして、クラと一緒に細かい16分音符をやらされることもある。 中途半端ではあるが、おいしい楽器だと思う。
 それでも木管楽器なので、音量が出ない。 何をやっても金管楽器に消されちゃうんだけどね。 リードもクラリネットより高いし、音程も取りにくいんだけどね。

 でも、この楽器にはまってしまった。 上記のような利点、欠点があるわけだけど、合奏中の世界の幅広さが大きな理由であろう。
 他の木管群にくらべて、難しい運指が少ない。 これにより、合奏中に周囲の音を聞く余裕が出てくる。 こういう時は、和音を構成していたり、ベースラインを担当していたりする。 余裕があるから、和音内での音程を気にかけられるし、ベースラインがリズム的にぶれていないか注意出来る。
 そして、旋律または副旋律を奏でる場面では、歌心を要求される。

 この2面性が楽しいんだよね。 大体、どこの楽団にも一人しかいないし。 青陵みたいに、人数が揃ったら揃ったで楽しいんだけどね。
 本当に飽きのこない楽器だと思う。 もっと、吹いていたい楽器だな。

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I 2001/01/09 「時間芸術」 I

 「時間芸術」。
 この言葉が、すでに使われていた言葉なのかは知らない。 しかし、いつの頃からか、音楽は「時間芸術」である、と考えるようになっていた。

 音楽について考えるとき、「時間」というのが密接に関わってくる。

 音楽は、会場や気候などを含めた環境、演奏者、聴衆のすべてが揃って、初めて成立すると思う。 気候は、時々刻々と変化している。そして、演奏者または聴衆に関しても、仮に同じ人を揃えたとしても、その時点での心理状態、健康状態を再現することは不可能である。 つまり、音楽は本来、その時、その場所、そのメンバーでしか楽しめない物だと思う。
 “音”自体は、CDなどのメディアとして記録することが出来るが、上記のことは記録出来ない。 音楽というものは、常に楽しむべきものなのだ。 CDなどで聞いても、楽しさを思い出すことしか出来ない。 やはり、その時、その場所、そのメンバーでしか得られない“感覚”を楽しむべきなのだ。

 演奏者にとって、本番の演奏というものは、練習に費やした時間がぎっしり詰った時間だと思う。 数ヶ月の努力が、本番の2時間に詰め込まれている。 吹奏楽コンクールに至っては、一夏の努力が、12分間に詰め込まれている。
 人間というものは、こうなると問答無用で楽しめるものだ。 演奏のどこを切り取っても、おそらく楽しめるであろう。 また、諸事情があって楽しめないまでも、ある種の感慨というものがあるはずだ。
 しかし、聴衆からしてみたらどうだろうか。 おそらく演奏者のような思いはなく、その場だけの時間だと思う。 聴衆は別に練習して演奏会に来るわけではないので、それが当然だと思う。

 「聞きに来てくれた全ての人に楽しんでもらいたい。」
これが、演奏者の気持ちではないだろうか。 では、どうしたら実際に楽しんでもらえるのであろうか。
 まず、「演奏者自身が楽しむこと。」 演奏者が楽しそうじゃなかったら、聴衆が楽しめるはずがない。 しかし、これに関しては、上記のわけで比較的容易に達成されると思う。
 次に、「演奏のどこを取っても、楽しんでもらえる演奏をすること。」 言葉にするのは簡単だが、楽しんでもらえる演奏をするのは、本当に難しいことだと思う。 演奏の全てにおいて、自分の中にある最高のものを出して、初めて楽しんでもらえると思う。 だから、本当に難しい。 どう頑張ってみても、細かいミスは出てしまうから。 ただ、心掛けているのと、そうでないのとでは全然違うと思う。

 結局、「練習、本番に関わらず、常に最高の演奏をする。」 これが、演奏者自身が音楽を楽しみ、また聴衆にも楽しんでもらえる秘訣なんだと思う。

 経過している「時間」のどの一瞬を切り取ってみても、最高の音がある。 これが、輝庵の目指す音楽。 そして、常に経過している「時間」を楽しむ。 これが、輝庵の音楽=「時間芸術」の楽しみ方。

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